齋藤純子インタビュー

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‘47年に宮城県仙台市に生まれる。高校卒業後は洋裁学校に進学し、就職を機に東京へ。‘75年に体調を崩し入院。健康のため、宮城県の牧場の馬と共に2ヶ月間牧場生活を送る。4年後にその牧場のオーナーである齋藤速人氏と結婚。船橋競馬場にて調教師の妻となる。‘89年にサイトウ乗馬苑を設立。‘92年には同苑が補導委託の認定を受ける。‘98年に保護司となり、同年から本格的に障害者乗馬活動を展開し、現在にいたる。

馬の体温は人間より2度ほどあったかいんですよ

「馬の体温は人間より2℃ほどあったかいんですよ、そのあったかさと、乗ったときの心地よい揺れが座骨から脊髄を適して、脳を刺激するから、心にも体にもすごくいいんですよね」
千薬県成円市荒海に首都圏でも数少ない、障害者乗馬を行うサイトウ乗馬苑。その社長を務めるのが齋藤純子さん。いま注目のホースセラピーの普及に取り組んでいる1人だ。馬に魅せられ、馬を通して人に喜んでもらいたい、その思いは熱い。自らも馬に助けられた1人だからだ。

青春時代に5ヶ月の入院生活!?馬の世界へ

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純子さんは仙台生まれ、小さいころから活発で、県内の女子校に在学中には応接団長をしていたこともある。高校卒業後は洋裁学校に進学。その後、就職を機に東京に。平日は仕事をして、土日には叔母の割烹料理屋を手伝った。忙しいが充実した日々だった。しかし、28歳の夏、突然のことだった。体調がすぐれないと思いながらも、疲れているだけだと思っていたある日、血尿が・・・。あわてて病院に行くと、即入院。それから検査の日々、4日間なにも食べられず、点滴で命をつないだ。腎臓がひどく弱っていて、家族が病院に呼ばれた。一時は余命3か月とまで言われたという。体重が30㎏台まで落ち、自分の足で歩けない。車椅子での入院生活が、半年近く続いた。

「もう、そのときは絶望でしたね、結婚なんてできないんだろう、したいとも思っていなかったですね」。
そんな純子さんを心配した父親が、「空気のいいところがあるから行っておいで」と、薦めてくれて行ったのが、牧場だった。そこで、純子さんは馬と出合い、現在の夫である齋藤速人さんと出会う。そして、31歳で結婚。
「披女は僕のところにきたんじゃなくて馬のところにきたんだと思う。僕が魚屋さんだったら、こなかっただろうっていつも言うんですよ」。笑いながらそういう速人さんは、20代は競馬騎手、その後は調教師として40年以上活躍してきた。

「馬のことに関しては、神様だと思っている」と純子さんがもっとも信頼を寄せるパートナーだ。その調教のプロが、「ギャンブルの世界で長く生きた。これからは世の中に奉仕しよう」と志を新たに、どんな人も安心して乗せられる馬を育てることに、心血を注いでいる。障害者を乗せられる馬をつくるのは難しい。辛抱強い、気立ての優しい馬をつくるにははかりしれない手間と深い愛情が必要で、一朝一夕にはいかない。障害者乗馬の全国大会でも、速人さんの育てた馬は、なくてはならない存在となっている。その、齋藤夫妻のホースセラピーとの出合いは、十数年前にさかのぼる。

暴走族のあの子たち、運動神経いいじゃない

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純子さんたちはもう11年以上、青少年の補導委託や保護司も務めている。非行に走った青少年や、親がいない子どもたちを預かり、寝食をともにし、職を与えて勉強させ、生計をたてていけるようにすることが目標だ。 きっかけは、暴走族だった。船橋の競馬場にいた当時、暴走族が深夜に爆音を響かせてせて暴走。

「うるさくってね、馬がびっくりするじゃないですか、頭にきちゃって、朝の2時に見に行ったんです」。そこで見たのはバイクに乗って蛇行運転をしている若者たち。ふと、思いついた。
「あの子たち、運動神経はいいんだな、バイクの代わりに馬に乗せてやったらどうだろう」と。翌日、すぐに警察に行き事情を話すと、家庭裁判所を紹介された。こまかい身上調査を経て、試験監察・補導委託の認可を受ける。動物に接することによって、青少年の更生の役に立てるのではないかと希望はふくらんだ。

以来、裁判所からは、1年に3人の子どもを受け入れている。まず試験監察期間として1年間預かる。そして次の1年半は、お給料もきちんと支払って仕事をしっかり覚えさせる。少年院から出てきた少年たちのなかには、解放された、とばかりに脱走する子もいたが、2年半の月日を、乗馬苑で過ごした子どもたちは全員が立派に更生し、進学、就職などそれぞれの道に進み、頑張っている。

そんななかで、障害者の娘さんをもつある弁護士から、障害者乗馬の話を聞いた。そして、「障害者のための馬をつくっていただけないか」と頼まれたのだ。もともと関心があった速人さんは、二つ返事で引き受け、そこから本格的にホースセラピーに携わるようになった。同じころ、家裁の調査官からは、「里親に申請を」という要請があり、知的障害者の里親にもなった。「うちは、障害者の方がたがたくさんくるでしょ、少年院からきた子たちが障害者の方がたと接するなかで、人間的にすごく変わってくるんですよ、人を思いやる心が芽生えてくるんですね」成長の様子をうれしそうに語る姿は、本当にお母さんそのもの。

そんな純子さんのお母さんについて聞くと、「いま思えば、母はすごく苦労をしていたんだと思います。でも、それを感じさせないほど明るかった」。肉屋を営みながら、寝たきりの祖父と祖母の2人の看護を13年間やりとおした。純子さんも小学生のころから、自然に食事や入浴の手伝いをしていたという。
「人のために何かできることはないか」そう考える性格は、そんな環境のなかではぐぐまれたのかもしれない。そして、1993年から始めた、ホースセラピーの想像以上の可能性に、胸を躍らせている。

心と体を癒やす乗馬療法で明るい笑顔の気持ちが広がる

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この日は、市川市の民間福祉作業所アート・ワーク・ショップの方々がきていた。あいにくの雨だったが、みんなの顔は晴ればれとしている。今日で2回目という高橋信雄さんは「最初に乗ったときはね、いままで生きててよかったぁって思いましたよ、片足がない自分が、まさか馬に乗れるなんて、夢にも思ってなかった」と、目を輝かせる。

体幹障害と言語障害の芦田晃志さんも、うれしさを押さえきれずに、気持ちを伝えようとしてくれる。アート・ワーク・ショップ所長の藤川さんが「この前も乗って、2回目なのよね、もうすぐ順番だからね」と言うと、いっそう顔がほころんだ。藤川さんは、「みんな、乗馬を経験したことで自信がついて、表情が豊かになりましたね。障害者というと、どうしても外に出る機会が少なくなりがちですが、どんどん外に出て、できる限り、いろんなことに挑戦したいと思っているんです」と目を細める。

ほかにも、自閉症、聴覚障害、脳機能損傷、ダウン症、不登校、心循環器系疾患などにも効果があるという。リハビリにとどまらず、競技として取り組む人もいる。脳性マヒによる四肢体幹機能障害の荒井育子さんは、ここにくると車椅子から馬に乗り換え、手綱を握る。1999年から乗馬を始めて、翌年の全国障害者乗馬交流大会の初級馬場馬術部門で優勝した。バラリンピックへの出場をめざして、練習中。

また、ここでは、乗馬だけでなく、障害者の雇用面にもカを入れている。養護学校を卒業後、サイトウ乗馬苑で働いている山崎勉さんは視覚障害と股関節に障害をもつ知的障害者、ここで働く障害者たちは、報酬の一部として、乗馬を楽しむことができる。
「すごいんですよぉ、勉なんかは、ここにきたときは歩くのもゆっくりゆっくりだったのに、毎日馬に来っているうちに、だんだん股関節が柔らかくなって、今なんかは、階段もトントントントンって上り下りするもんね」山崎さんのおもな仕事はニワトリ小屋の掃除と出荷する前の卵の卵ふき。

「不景気っていうのもあって、この子たちのような子が働ける場所がなかなかなかないんですよ」障害者乗馬の料金は、1人あたり2500円。1人の乗馬につき4人のスタッフが必要で、熟練したスタッフに加え、ボランティアが大きなカとなっている。日本での認知度はまだ低く、実際、市や県の議員や国会議員も視察に訪れている段階で、行政のサポート体制はこれから整備していくというのが現状だ。 ヨーロッパでは古くから、心身ともに効果の高い療法として認められ、乗馬療法士が国家資格として認可されている国もある。私財をなげうっての経営は苦しいが、やめるわけにはいかないという。

「みんなの笑顔と喜ぶ顔を見るたびに、続けるべきだって確信がわくんです。障害のあるこの子たちの、行く場所をつくってあげたい、楽しく生きいきと働ける場所をつくりたいんです。」と夢は尽きない。

「パンプキン」インタビュー特集より